戸羽幸太のプロフィール
簡易プロフィール
■ 会社名 株式会社MAPフィナンシャル
■ 役職 執行役員
■ 生年月日 1977年8月17日生まれ
■ 出身地 岩手県陸前高田市
■ 出身校 千葉大学
■ 経歴
太陽ゼネラル
⇒AIGスター生命(現・ジブラルタ生命)
⇒株式会社MAPフィナンシャル
戸羽幸太の詳細プロフィール
小学校1年生から野球三昧。現在まで続く野球熱
兄が先にやっていたので、それにつられるように私も小学校一年生から野球を始め、そこからとにかく毎日野球の日々を送っておりました。
ポジションはショート。運動神経だけはよかったことが当時からの自慢で、ほぼ毎日練習していましたね。
地元の中学に進学したのですが、強いメンバーも揃っていたためチームも強く、野球以外の思い出がないくらい野球漬けでした。
野球以外のことはほとんど覚えていないのですが、唯一覚えているのは高校の進学先を決めるとき。
実家は家電屋を営んでいたのですが、兄は継ぐ気がなかったので、父親は私にその家電屋を継いで欲しいと希望していました。
その気持ちからか、自分に対する態度は強くなりがちで、中学生相手に「ああしろ、こうしろ」と指図ばかり。
反抗期もあいまって、中学時代はほぼ口も聞いていないほどでした。
そして、そんな家を出たくて、家から離れた下宿付きの進学校へ進学。ただ、そうなると今度は寂しくなるんですよね(笑)。
でも、両親には簡単に寂しいことを打ち明けられず「焼肉が食べたい」とか理由をつけて高校の近くまで呼んで。
わがままな末っ子だったのかもしれません。
スポーツトレーナーに憧れるも断念。金融関係の道へ
大学は千葉大へ進学したのですが、元々はスポーツトレーナーになりたかったんです。
しかし、両親に「それなら大学へは行かせてやらん」と言われてしまったので、一旦スポーツ科のある千葉大学教育学部へ進もうと画策。
このとき、高校の担任との面談で、
「お前なんか受かるわけねえだろ」
と言われ、カチンと来ましたね。
それまでほとんど勉強していなかったのに、そこから猛勉強。
見事、千葉大学に合格しました。昔から、反骨精神がエネルギーになるタイプだと思います。
大学でももちろん野球部に4年間所属し、部活とアルバイトを往復する生活。
友達も多く、充実した生活を送っていたのですが、肝心のスポーツトレーナーの道は、当時まだ進路として確立されていなかったので、自分の知識、実力では難しいと断念。
スポーツ飲料会社なども、不景気な時代だったので採用が絞られていたので諦めさせられました。
それでも、職にはつかなくてはなりません。
何100社受けてようやくどこかに受かるような時期だったので、「もうどこでもいいや」と思って、商品先物を取り扱う会社へ新卒で入社。これが2000年でした。
「向いてない」ながら続けた営業。2年目の転機
商品先物の会社では同期が200人ぐらいいましたが、大学名を聞くと、聞いたことのないような名前ばかり。
「こいつら大丈夫か? こんなやつらに負けるはずないな」
そう思ってなめていたら、最初の1年目の自分の営業成績は下から5番目でした(笑)。
まったく商品が売れなくて、「自分には向いてない」と、上司に3回辞表を出すもすべて破り捨てられて。
「これは、どうしようもないな」と絶望していました。
そして、転機は2年目。
それまではずっとテレアポでの営業だったのですが、2年目に別の上司の部下になり、
「お前は対面の方がいいかもな」と、
彼の元で外に自由に出て営業させてもらえるようになりました。
その言葉通り、確かに対面で話す方が自分にも向いていて、成績は徐々に上昇。
半年に一度の昇格基準も満たし、3年目では同期で2人しかいない係長に出世を果たしました。
もしその上司の部下でなければ現在の自分の営業スタイルは身についていなかったので、この巡り合わせには大変感謝しましたね。
しかし、会社のやり方はずっと嫌だなと思っていました。
というのも、自分たちが任せられていたのは新規の契約を取ってくる営業だったのですが、その後の先物の運用は店長に任せられてしまうシステムでした。
契約を取ってきた自分たち営業マンに許可も取らず勝手に売買をするような人で、もちろんせっかく取ったお客様から「あのときの鳥羽を出せ」とクレームが自分に来る。
自分を信頼してくださって契約を結んでいただいたのに、
「これじゃ、何のために商品を売っているんだ…」
という思いがぬぐい切れませんでした。
そういった業務内容のジレンマを抱えていたので、精神的にはキツい仕事でした。
休みを取るにも必ず週に1件契約を取らなければ休みを取らせてももらえない。今で言うブラック企業ですね。
ただ、寮生活で家賃がかからず、契約を取ってさえいれば給料だけは良かったので、ストレスを発散するために銀座を飲み歩いていました。
周囲からは「鳥羽さんは華やかですね」なんて言われていましたが、自分的には辛い思いが強かったこの頃。
悩んでいたタイミングで、AIGスター生命からスカウトされ、3年半で会社を辞めて転職を決意するのです。
同じ金融商品でも異なった保険営業マン。マネジメント職を目指す
生命保険販売の営業は同じ金融と呼ばれる部類ですが、新卒時代の前職と比べれば、自分が契約を取ったお客様とのやり取りがその後も続けられるシステムがあったので、精神的にはグッとよくなりました。
また、扱っている商材もお客様思いのモノが多かったので、自信を持って売ることができたのも大きいと思います。
ただ、ここでもスタートはうまくはいきませんでした。
最初は友人伝いの営業を始めたのですが、どんどん友人が電話に出なくなっていく。世の中、先物商品も保険も偏見は一緒なのだと痛感しました。
それでも、自分の成績のためにも営業を頑張らなくてはならない。
また、そのときは営業よりも新しい営業マンを見つけるスカウトや、見つけてきた営業マンたちを育てるマネジメント職の仕事がしたかった。
そのために、がむしゃらに営業を頑張って、2年後には念願のマネジメント職に移動になりました。
ただ、当時の自分は26,27歳の若造。
前職の同僚や、優秀そうな若手をスカウトし、自分が面倒を見ていたのですが、これも最初は全くうまくいかず、彼らの営業成績という名の数字を作ってあげることができませんでした。
なかにはもちろん年上の部下もいて、彼らはまったく自分のアドバイスを聞いてくれない。
アドバイスしたり、咤激励しても、誰も数字が伸びてこない。
「これはもう、自分が直接数字を作ってあげるしかない」
簡単なところではなく、あえて難しそうなお客様に契約してもらって部下の数字にしてあげれば、部下にも響くし、勉強になるところがあるのではないか。
こう思って、部下の営業先に同行し、力を見せつけるように契約を結んでいきました。
このマネジメントスタイルで、ゆっくりとでしたが、現場からの信頼も上昇。プレイヤー兼マネージャーが信頼されるのは、野球からの経験でも知っていたからもしれません。
徐々に自分も出世をしていくことができ、最後には営業所長まで登りつめることはできました。
リーマンショック後AIGの買収 ⇒ 転職して現職
AIGには合計で8年間在籍したのですが、リーマンショック後に買収され、後の会社のスタイルが自分に合わず、2年後に退職しました。
そして、自分を元々AIGにスカウトしてくれた現マップフィナンシャルの社長が再度声をかけてくれて、初の保険代理店に転職。
ここでは保険だけでなく、さまざまな会社の商品を提案できる自由さがありました。再び現場で密にお客様と接する、顧客の資産を守るプレイヤーに復帰。
現在は保険だけでなく、さまざまな商品を組み合わせて、自分が用意できる最高の提案を持って営業できていると思います。
そして、プライベートでも新たな挑戦をしました。それは少年野球チームのコーチです。
もともと保険営業マン時代から、お客様の家に伺ってお子さんのスイングを見るなど、子供の練習に付き合うのが好きで、若い時からコーチの真似事はしていたんです。
また、就職してからもずっとプライベートでは草野球チームで練習、試合ばかりしていました。野球は常に自分の身近にあったんですね。
なので徐々に、「自分が思い描く少年野球チームを作ってみたいな」というぼんやりとした目標が自分の中に芽生えていました。
そして、ついに新規の少年野球チームが立ち上がることに。
本格的にコーチとして参入するために、○○から東京の青梅市に引っ越して(笑)。念願の少年野球に携われることになったんです。
しかし、現在はいつものように悪戦苦闘中です(笑)。というのも、そのチームの監督と指導方針が合わなかったんです。
監督の指導方針としては、昭和の野球ではない、選手を起こらないノビノビとした少年野球チームで子供を教えること。
これ自体には私も賛成なのですが、その思いが強すぎて、子供が良くないことをした時ですら、きちんと叱ることを許してくれないチームでした。
例えば、相手チームを試合中にヤジるとか、練習で手を抜くとか。
こういう「良くないことをしたとき」は、きちっと叱ってあげることが、「人間育成の場である野球」のコーチ、チームとして必要だと私は思うからです。
そのため、現在はまた新たに「人格」も育てられる野球チームを作ろうと動いています。
まあ仕事でも、何をやっても最初は上手くいかなかった人生だったので、大好きな野球のために、根気強くやっていこうと思っています(笑)。
忘れられない、5000万円の死亡保険では足りなかった奥様の人生
長々と自分の人生をご紹介させていただきましたが、私が生命保険の営業マンになってから17年の月日が過ぎようとしています。
人生を振り返れば、父親、教師、会社に反発して、その反発をエネルギーに変えてがむしゃらに頑張ってきたようにも思えます。
そして今、反発すべきことは「現状」です。
コロナ禍で多くの人のライフスタイルが変化を迫られるなかで、保険のあり方、資産防衛のあり方も変化しなくてはなりません。
ですが、高齢者ほど危険性の高いコロナ禍の環境においては、対面もなるべく避けなければいけない。SNSやテレビ電話を用いた、新しい相談の手法も必要だと思います。
テレアポが苦手だった私ですが、新たな環境に挑戦する気持ちで、お客様の資産を守るお手伝いを続けていきたいと考えています。
そして、環境は変われど思いは同じです。
保険は満期で解約したときや、いざ病気にかかったときにありがたさを実感できるまでに時間のかかる商品です。ですので、すぐにはわからない。
それでも、
「すぐには良さを理解できなくても、自分を信じて契約を結んで頂いた方を、絶対に裏切らないようにしよう。最後には喜んでもらおう」
こういった思いで、さまざまな金融商品も含めて総合的に提案できるマップフィナンシャルで、日々勉強しております。
そう考えるようになったのは、私がまだ20代後半、保険営業マンになりたてだったころに出会った、とあるお客様との出来事がきっかけです。
経営者であった旦那様が亡くなられた奥様の元へ、旦那様が亡くなられて下りた死亡保険の5000万円を届けにいったことがありました。
旦那様は奥様のことを考えたつもりで手厚い生命保険を契約しておられ、相談に乗っていた私も、「ここまでやったから納得してもらえるだろう」と思いながら、手続きを進めていました。
しかし、そのやり取りの最中で奥様は、
「こんなお金で、これからどうすればいいの……」
と、顔からその思いがありありと伝わる、沈痛な面持ちを見せられたのです。
後に事実が判明したのですが、その家には旦那様が残された死亡保険5000万円以上の借金がありました。
私はこのとき、保険金というのは契約者だけでなく、保険金の受け手の立場も如何に重要かということを初めて痛感しました。
本当はもっと旦那様に、家計状況を深堀して色々聞かなくてはならなかったのです。
自分も年齢を重ね、病気のリスクが他人事ではなくなってきた今現在では、その残される立場の心情もより鮮明に想像できます。
FPはたかだか月2万円で安心が買える保険を売る商売ではない。もっと、金額以上に大きなものを背負っている。
このときの出来事を忘れず、常にお客様との対話を大切にして、本当に大事なものを守るためのプランを提案する。
「最後にはお客様に喜んでいただく」
この定めを守り続けるために、一日一日をしっかりと精進していく所存です。
動画にてご挨拶させて頂きます
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