渕崎伸彦

渕崎伸彦のプロフィール

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 名前 渕崎 伸彦(フチザキ ノブヒコ)

 生年月日 1979年7月11日生まれ

 出身地 大阪府堺市

 経歴
アパレル業界に10年(ルイ・ヴィトンジャパン、グッチジャパンなど)
金融業界に10年

渕崎伸彦の詳細プロフィール

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父の病気がきっかけで、貧困生活に苦しんだ幼少期

社会人になるまでの自分は、かなりお金に困った人生を過ごしてきたと思います。

 

生まれは大阪の堺市で、3歳上の姉を持つ長男として誕生。

父親は鉄工所で働いており、小学生になるまでは平屋の借家で家族4人で生活していました。小学校1年生のときに、父は念願だったマイホームを購入。

活発な少年だった僕は、門限は暗くなるまで…外で遊び回って、へとへとになって家に帰る。この頃が、家族が一番幸せに過ごしていた時期だったと思います。

 

平穏な暮らしが崩れ出したのは僕が10歳になった頃。

どうにも父の様子がおかしくなったのです。急に気性が荒くなり、気分の起伏が激しい状態が続くように。

それまでは暴力なんて振るわなかったのに、暴力的な行為も行うようになって行きました。

 

それからは、以前の厳格だけど優しい父と、突然怒鳴り散らしてくる父が交互に現れ、家族は混乱状態に。

のちに、これが脳血管疾患の一種で、父の気性が荒くなった原因は、記憶の混同が生じていたからでした。

病気の父親の暴力に怯えた、忘れられない過去

父の病気が判明してからは、あれこれと手を尽くしたみたいですが、回復に向かう事はありませんでした。目を話せば徘徊するようになったり、怒れば近くにあるものを何でも投げてしまう。

小5の頃には、父親が包丁やビール瓶を家族に向かって投げつけてくることも。この時の実家生活の思い出は、子供心ながらに恐怖しかありませんでした

 

その後、病気が進行した父親は病院で入院生活へ住宅ローンがある事から、母親は日中から働きっぱなしの生活です。そして夜は、父の看病で病院へ

入院前に感じていた父親への恐怖と母親が家にいない寂しさから、入院してから一度も父のお見舞いへは行けず、父親とはそれっきり。

 

中学3年生の時に父が享年60歳で亡くなり、結局遺体で帰って来るまで、一度も顔を見ることはありませんでした

 

もちろん、一家の大黒柱だった父親が死んでしまっては住宅ローンなど払えるわけもなく、家を売らなければなりません。

しかし、当時はまだ契約者の死や、大病を患った時に、住宅ローンの支払いが免除される保険がなく、家を売るしか選択肢がありませんでした

 

そんな状態で引っ越した家は、2DKのアパート。一軒家から、アパートに引っ越しただけでも辛かったのに、初めて家の戸を開けたとき、壁を大量の虫がサッと走って逃げていったんです。

「僕、こんな人生を歩んでいくのか……」

初めてそのアパートで寝るとき、涙が止まらなかったのをよく覚えています。

人生で最もみじめだった、中3の貧困時代

父親の死後、貧乏の原因になったのは生命保険と住宅ローンの契約内容でした。

 

父がまだ健康だった当時はいわゆるバブルで、庶民も背伸びをしてモノを買うことに抵抗がない時代。

我が家にも立派なひな人形や五月人形があったのですが、その人形は生命保険を解約した解約金で買っていたのです。

 

住宅ローンも契約者が死亡した際に支払いが免除になるなど、今では当たり前である契約を結べていなかった為、売却以外の選択肢しかありませんでした。

 

また、気性が荒くなった父親からの暴力で、最初の頃は良かったのですが、母は障害者等級をもらうほどのダメージを体に負っていました

そのため、母親も満足に働けず、家計は最悪の事態に陥ってしまったのです。

 

これらの理由で、中学3年生のときは人生のなかでも最も貧乏な生活を送ることを余儀なくされていました

小学校時代から、土曜日に授業がある日は給食も出ず、家に帰ってもご飯がないことは分かっていたので友達の家に遊びに行って、そこでご飯をご馳走になったりしていました。

友人たちは事情を察して、以前と変わらない対応をしてくれていたのに感謝しています。

このころからの友人とは今も年に数回集まって交流が続いています。

 

「僕の人生、終わったなあ……」

と、逆に気持ちが滅入ってしまっていましたね。勝手に他人と比較してみじめになってしまっていたというか。

明日起きたら、この生活が夢だったらいいのに」

毎日、毎日、思っていました。今思えば、鬱状態だったと思います。

高校進学 バイトをしまくって、個人レベルで貧困脱出

そんな生活を送っていたある日、母が障害者手帳を持っていたこともあって、家を訪れた市役所の人から、

「息子さんは、高校へは行かずに働くんだよね?」

と当然のような口調で言われました。

 

市役所の人も、僕が働けば家庭に追加で補助金を出す必要もなくなりますし、仕事上そのように発言したのでしょう。

その言葉を真に受けた僕も、

「僕が働くしかないか……」

と、そう考えていたのですが、当時姉が付き合っていた彼氏が、

「弟さんも、高校だけは行かせてあげたほうがいいです」

と、母親を説得してくれたんです。

 

そのおかげもあって、なんとか貧乏な家庭でも安く通うことができた私立高校に入学。無事高校生になることができました。

姉から

「高校はサボったら留年や、停学、退学もあるから、絶対にサボるな」

と言われていたので、毎日真面目に通っていました。

 

一番の転機は、高校からアルバイトが出来るようになったことでした。

 

メインは、ビルメンテナンスの清掃業者で休みの日はバイトをし、掛け持ちで夜は飲食店のキッチンで働きました。

そうして、1年後には、月に10~15万円を安定して自分で稼げるようになっていました。

ビル清掃業のバイトでは昇給制度があり、自分が頑張れば頑張る分、稼がせてくれました。

 

努力で現状を打破できることを知れた経験が、当時の自分の生活とメンタルを救ってくれ、今の礎になっていると感じています。

18歳の決断 進学or就職

こうして通学とアルバイトでほぼ3年間を過ごし、次の進路を考える時期がやってきます。

正直、本当は進みたい大学や学部もあったのですが、大学費用を親に捻出して欲しいとは言えない状況は理解出来ていました。

 

今の時代だと奨学金といった選択肢もあると思いますが、当時は誰にも相談できず、バイトで貯めたお金で受験だけはする事にしました。

さすがに市役所の人も味方になってくれるわけでもなく

「今度は、さすがに就職するよね」といった流れになっていきました。

 

置かれている環境については、自分が一番理解出来ていたので、腹を決めて就職を決意

当時はファッションに興味が出て来ていた時期で、やればやっただけ評価に繋がる仕事に就きたいと考えて、アパレルの販売員を選択。18歳の決断でした。

気合と努力のアパレル時代 売れる人が評価される実績重視

就職した会社はゴリゴリの体育会系会社でした。

「勤務態度が真面目で、売上が低い」という人よりも、「勤務態度も重要だが、売上を上げる事」が評価される、実績重視の会社でした。

 

大阪難波駅の高島屋に配属され、「最初から結果を出す」と意気込んでいた私

その気持ちを店長や副店長が察してくれ、僕に花を持たせてくれるように動いてくれたおかげもあって、入社して3か月後から転勤するまで、ずっと営業成績は1位をキープ出来ました。

 

この頃、真剣に付き合う彼女もできて、プライベートも仕事も充実感を感じながら生活出来るようになっていました。

しかし、このタイミングでまたまた役所から

「お母さんと同居していると、一部支援を打ち切らなくてはならない」と言われます。

 

この時、最初で最後の相談を母にしました。

「実家を出るか、そのまま母と生活するか悩んでいる」と、相談したところ

「あなたの人生、自分の思うように、自分の人生を生きなさい」

背中を押してくれて、転勤を決断。彼女の地元の、愛知県に転勤しました。

 

その愛知の転勤先では、店舗の責任者を任される部門に異動し、店長代理の仕事へ。

社会人になって初めての壁にぶち当たることに。

それまでは、上司に守られた環境で成果を出していましたが、ここでは自分が店のトップとして部下を動かし、彼らを守っていく立場。

 

体育会系会社の文化そのままに、20歳そこそこの自分が、5歳も6歳も年上の部下に対して、あれこれと指示をしていたら

「あなたの下では働けません」

と、部下の販売員が自分についてきてくれなくなってしまったのです。

 

それまで自分の成果に対してだけ努力をしていたので、チームをまとめられずに成果が上げられないというのは、自分にとって初めて味わう挫折でした。

ハイブランドに転職 アパレル業界を味わい尽くす

当時は21歳で、年齢も若く、社会人経験も浅かった事から、部下からの信頼をなくし、挫折感も味わっていたので「環境を変え、管理職よりもお客様と接する販売員としてより成長したい」と転職を決意

辞めたばかりのときは、「高校生のころから働きづめだったし、少しゆっくりしてみよう」と考えて、一か月ほど働かずにゆっくりと転職活動をしていました。

 

しかし、貧乏暇なしの気質が自分に染み付いていたのでしょうね(笑)

動いていない状況に落ち着かなくなって、次の就職先を探し始めました。

 

結果、2社目に選んだ会社はルイ・ヴィトンジャパン

「同じ働くなら、世界最高のブランドで働いて、自分を高めていきたい

この思いで面接を受けました。

 

面接官からは「ルイ・ヴィトンに来て君は何ができるの? 君より優秀な先輩、後輩しかいない。そこでどうやって君は輝くの?」と問いかけてきました。

いわゆるゴリゴリの圧迫面接です(笑)

 

幸い、体育会系の会社出身だったこともあり、圧迫されるのには慣れていました(笑)

「その様な優秀な方が働いているなら益々その環境で働いてみたい」

今の自分には、プライドも何もなかったので、純粋に成長したい事を訴えかけました。

すると、その様子が気に入ってもらえたのか無事に合格。2001年に入社し、ここで4年働くことになります。

 

ただ、ルイ・ヴィトンでは面接官の言うほどの経験は出来ませんでした。

というのも、素晴らしいスタッフも多々いたのですが、ルイ・ヴィトンほどになると、スタッフの営業力で商品を販売するというよりも、ブランド力、システム力を生かして販売する体制が出来上がっていたからです。

社内の公用語は英語でしたが、英語が出来ない方も多く、スーパーマンばかりだと思っていた社員も、普通の人が大半でした。

高級感を醸し出す立ち振る舞い、礼儀作法が身につく研修制度など、素晴らしい経験をさせて頂きましたが、店舗を直営化して行く採用過程の後半になって入社のタイミングだったので、将来出世などしたい場合は、管理職に席がなく

入社して数年経った時に管理職に興味が出てきていた自分にとっては、上がり目がないことに気が付きます

 

4年を機に、ヘッドハンティング会社を通じグッチジャパンへ転職。

新店舗の立ち上げのタイミングだったので、ここではある程度の裁量もある仕事を任され、年収も100万円ぐらい上昇。

 

ほどほどに充実していましたが、ふと気が付けば、高卒でアパレル業界に飛び込んでから10年が経とうとしていました。

「ルイ・ヴィトンもグッチも経験した。もうアパレルで、自分にできることは多分ない…」

こう悟るには、十分の時間を過ごしていました。

来てもらう営業から、自分で売り込みに行く営業へ。しかし、再びぶち当たる壁

高卒で、服飾の専門も出ていない自分にはアパレル業界での上がり目はもうない。

それならば、努力すれば努力しただけお金が稼げる職種の方が合っているのかもしれない。

当時は27歳でしたし、30際になるまでの3年間、そんな職種で努力してみようと考えて、訪問販売の営業会社へ転職しました。

 

その会社には年収1000万円の営業員も存在していて、高卒の自分から見たら夢のような世界でした。

頑張って月に30~50万円稼げてたら御の字だろうと、少し甘い見積もりで飛び込んだんです。

 

しかし、この訪問販売ではそれまで自分が培ってきた接客術を、うまく生かすことができませんでした。

というのも、アパレルの販売員時代はお店に来店してもらって、自分がおススメした商品を購入してもらってようやく評価の指標に乗り、購入してくれたお客様が再来店してくれたら評価がアップするという、受け身寄りの営業だったんです。

 

しかし、訪問販売の評価基準は新規契約のみ。新規契約後は、同じお客様から再度購入してもらっても、自分の評価につながらない制度でした。

1回限りの人間関係で終わってしまうそのシステムにうまくマッチすることができず、どれだけ一生懸命頑張っても、手取りで30万円ほどの契約しか結べません。

 

苦労する日々が続きました。

 

そうしてもがいている時に、たまたま外資系保険会社の営業と知り合って、スカウトを受けました。

その保険会社の営業スタイルは、自分がアパレルで培ってきた営業スタイルと似ていました。同じお客様を大事にしながら、そのつながりから新たにお客様を紹介してもらってご契約をお預かりしていくスタイル

 

自分自身、保険を誤解していたので不信感もありましたが、資産形成や資産運用のための保険商品も多いことを知りました。

「お客様の資産をお預かりし、中長期的な長い信頼関係が出来る保険業界なら、自分が求めていた仕事だ!

こう思って、転職を決意。30歳で、保険の営業マンとしてのキャリアをスタートさせました

手取りが30万→5万円に。地獄だった最初の1年

保険営業マンに転職したての頃は、積み立て型商品の話をアパレル時代の同僚のもとへ持って行って、話を聞いてもらいました。

積み立て型商品だとお金も貯まるし、満期にはお金が増えて戻ってくる。みんな喜んで入ってくれると思っていたのですが、ほとんどの人に「お金がない」と一蹴され、あえなく撃沈しました(笑)。

 

そしてそのまま、まったく契約がお預かり出来ない状態が続いてしまったのです。

 

外資系保険会社では最初の数か月だけ給料が保証されているのですが、契約がお預かり出来ないと給与ランクが下がっていき、ランクBで入社した私は、数か月後にランクCに降格。

手取り30万円から、5万円くらいまで落ち込んでしまいました。

 

こうなってしまうと、電車に乗って移動するのも苦しくなって、自転車か徒歩で営業先まで移動していました。

しまいには自転車も壊れて、1時間ほどかけて、歩いて出社したりもしていました(笑)

 

入社してから、そんな状態の中、約1年が経過し、知り合いも回り尽くして、話をしに行く宛もない。あと2か月間、契約がお預かり出来なかったら、ランクがDに降格して解雇という窮地まで追い込まれていきます。

 

知り合いで保険の話が出来る方はもういない。

「絶望的だな…」

と思っていたとき、自分を誘ってくれた先輩から、

「職域に行ってみる?」

とアドバイスされ、職域に行くことに。結果この事で、僕にとって光明が差してきます。

愚直に通う姿勢がお客様から評価。みながやりたがらなかった仕事で逆転

職域とは”職場訪問営業”の通称で、皆さんもたまに会社のオフィスで生命保険の営業の方が声をかけて回っているのを見ることありませんか?

社内で営業をすることを許してくれた会社に赴いて保険の営業をする、これを保険業界では職域と呼びます。

 

僕にとっては、この職域以外に話に行くところがありませんでした。とある職場に行くのですが、電車賃がないため、片道3キロほどある道のりを毎日歩いて通い続けました

 

そのとき通っていたのは公務員の方が働く職場。

最初は職域の保険営業を嫌う雰囲気があり、挨拶してもひたすら冷遇され続けていましたね(笑)

 

ですが、それで滅入ってしまったらもう終わり。とりあえず、コミュニケーションを取るところから始めようと、数か月間毎日通い続け、顔見知りになった人とひたすら他愛のない会話をし続けていました。

するとある日、一人の職員さんが、

「渕崎さんは、毎日通ってますけど、どんな商品があるんですか?」

と、世間話のついでに保険の説明をする流れに。

 

僕もその職場に通い続けて2か月ほど経っていたので、公務員の皆さんが本当に求めている保険商品もなんとなく理解していました。

その理解をふまえて、”中長期かつ安定したローリスクローリターンの保険商品”の説明をしたところ、声をかけてくれた職員さんが、

「え?想像していたものよりもずっといい内容だね

と驚いて、すぐに契約をお預かりする事に。その職員さんは高卒から働いていて、若いけど実は中堅の職員さんだったんです。

 

すると、その職員さんをきっかけに、数か月で、30人ほどの方々から保険契約をお預かりする事になりました。

僕から加入してくれた人たちはみな、

「渕崎さんは、毎日来るのに、保険の話もしないでずっと世間話だけしてたんで、気になってたんですよ」

と、自分の愚直な姿勢を気に入ってくれていたようでした。僕にとっても、保険営業が嫌われていた職場で、僕のような新人を信頼してもらえた出来事は大変大きな経験でした。

 

結果的に、その職域活動からの契約は所属していた会社でも評価され、私のランクもBに返り咲き。その後、勢いに乗ってどんどん契約をお預かりしていけるようになったのです。

契約数は伸び続け、営業マンとしては成長。しかし、所属先に翻弄される

給料が5万円しかなかった悪夢のような時期から脱却できたあとの約2年間は、順風満帆に働けました。

 

しかし、時代は世界の金融業界を襲った最悪のリーマンショック後から数年。

僕が所属していた会社も、リーマンショック後の数年で買収されてしまい、取り扱っていた商品の内容も変化してしまいました。

買収前に比べれば、取り扱う商品には魅力を感じられない商品が多く、「信頼される商品をお預かりしたい」と思って独立を決意個人で代理店業を開始しました。

 

会社をやめて代理店となってよかったのは、会社からの拘束時間が減り、自分なりの働き方ができるようになったこと。

ライフワークバランスが向上し、保険以外のビジネスもできるようになったので、働くことの楽しさを再確認できました

 

同時期に、ファイナンシャルプランナー(FP)としての活動を本格化しました。

時代の変化とともに、保険だけではお役に立てない事も多くなってきているので、住宅ローンやその他ローン、クレジットカードの選定、投資信託やNISA、積立NISA、iDeCoなどの長期積み立てなどのアドバイスもキャッシュフロー表を作成した方を中心にアドバイスを続けています。

来のお金の見える化が出来るキャッシュフロー表はおススメですね

 

その後、僕のような個人で代理店をしていた多くの人から誘われて、皆で集まるように共同で代理店をスタートさせます。

この時期に、保険営業マンとしては1つの指標であるMDRTにも到達し、現在も水準を維持しています。

それ自体は良かったのですが、ほとんど休みがない状態での労働量などを加味すると、家族との時間も取れない状況だった為、再び独立を検討しました。

 

しかし、僕が契約をお預かりしているお客様の契約を引き継ぎしてくれないと言われてしまったのです。

契約をお預かりしたお客様は必ず最後まで見守るつもりで接しているので、それは納得できないと半年ほど交渉しましたが、最後には決裂。

このとき、現在僕が所属する会社に、自分が抱えていた顧客や独立の相談で大変お世話になりました。そして、顧客ゼロの状態で、移籍することになったのです。

アパレルで約10年、金融業界として約10年。人生で、いま大切にしていること

現在所属する会社は、個人の裁量に委ねる部分が大きく、皆が思い通りに働ける素晴らしい環境だと思います。

 

僕自身、自分の幼少期の経験から、お金の大切さ、生命保険や住宅ローンの重要さは痛感しているので、お客様が求める以上の提案や、不測の事態を想定した提案を心掛けています。

そして、現在の僕が、自分の人生や仕事において大切にしていることは、出会った方との信頼関係を築き守り続けて行くことです。

 

元々、アパレルの販売員としてスタートしていることも大きいと思います。

まずはそのブランドの中での似合う服や、どうされたいのか?をしっかり伺う。

そこから、自分の提案をして行く。その中で信頼を築いていく。

誠実で正直であれば、リピーターになられて行くことが多かったです。

それは言い換えれば、自分がお客様から得た信頼を評価してもらっているということ。

 

この経験が、現在、金融業界で働く自分にも合っていました。

まずはその方の好みや性格、考えを聞いていく事を念頭に置いています。

将来どうしたいのか?どうなりたいのか?についての話しをして行く中で、信頼関係が出来上がっていくように思います。本当に色々な事を話しますね。

土地の方向、お家の間取りや、旅行の事、クレジットカードの活用方法なども…

 

 

話しが逸れてしまったので、簡単にまとめると…

「アパレル時代は、オシャレになって喜んで頂き、金融業では資産を増やして喜んで頂く

を心がけて、日々のFP相談に励んでいます。

 

顧客優先と言われて久しいですが、自分だけが得をするような商品は、その信頼関係はいずれ崩れます。

絶対に裏切らない、確かな信頼関係を築き上げて行くことこそが、お客様と自分の豊かな未来につながっていくのだと日々感じています。

 

ただ、最近はそれが行き過ぎているのか、FP相談だけではなく、夫婦喧嘩の相談や、諸々なご相談まで受けることもあります(笑)

でも、それは自分を信頼してもらっている証拠なので、大変嬉しいことですし、どうしても真剣に答えてしまっている自分もいるんですよね(笑)。

 

それでも、

「長い付き合いを大前提とし、お客様の人生のパートナーになる」

これを仕事の一番の目標にして、日々働いています。


本当に色々な経験をしてきたので、他人とは違ったアドバイスが出来ると思います(笑)

プロフィールを読んで頂いた方は、お気軽に声をかけてもらえたら嬉しいです。

動画にてご挨拶させて頂きます

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