奥野直人のプロフィール
簡易プロフィール
■ 会社名 グローバルアイデアル
■ 生年月日 1988年7月10日生まれ
■ 出身地 滋賀県守山市
■ 出身校 龍谷大学経営学部経営学科
■ 経歴
2010年~ 独立系FP
2015年~ 外資系保険会社
2019年~ 総合乗合代理店 FP
奥野直人の詳細プロフィール
幼少期:女手一つで育ててくれた母
滋賀県の守山市出身で、5人家族の3兄弟の末っ子として生まれました。
自分が10歳の頃に、父が10年程の闘病生活を経て亡くなってしまい、一緒に遊んだ覚えがほとんどありません。
小学校教師だった母が、働きながら女手一つで育ててくれたのですが、当時の小学校の教師は今よりも激務で、毎日22~23時ごろまで働いてから帰宅する日々。
年上の兄貴2人と遊びながら「まだかなあ」と母の帰りを待っていたのを覚えています。
小中学校:不登校児生活が続く
奥野家は、あまり学校とは縁がない子供でした。兄2人は、当時はあまり学校に通えずに不登校気味。
年が離れていた私は、悪い意味で兄を見習い、体は元気でしたが自分も学校には通っていませんでした。
狭い教室の同じ環境でじっとしているのが苦手で、当時はそれを苦痛に感じていました。 でも、外で遊ぶのは大好きな活発さがあったので、明るい引きこもり(?)だったように思います。
そんな不登校児生活は中学卒業まで続きますが、高校生活に対しては、兄や学園系の漫画の影響から漠然としたあこがれがありました。
「義務教育が終わるこれからの選択は、人生を決める決断になる」
そんな風に思い込んで、中学3年時には独学で受験に向けて猛勉強。無事、志望校に合格します。
偏差値的には大した高校ではないのですが、それでもひとりで計画的に物事に励めば、結果が出るという経験を得たことは貴重でしたし、なにより
「自発的に勉強してなにかを学ぶ」ことは「楽しい」こと
高校時代:はじめてのまともな学校生活
高校ではテニス部に所属しました。
自分にとってはまともな部活動というのは初めてだったのですが、関西選抜レベルの実力を持った同級生が偶然にもテニス部で同期になり、私たちの代は彼につられるように練習して、みんなうまくなっていきました。
私たちの代以前のテニス部は弱かったので、自分たちで練習メニューを作って夜の10時まで練習していました。
隣のサッカー部が全国レベルの強豪校だったので、サッカー練習場の照明を頼りにして。すると、サッカー部の監督は人格者だったのでしょう、
「お前ら頑張ってるな。練習が終わるまでは俺が面倒見てやるから」
と、部活が違うのにテニス部の夜連もなんとなく見守ってくれるように。おまけに、学校に掛け合って照明までつけてくれました。
切磋琢磨できる同期と見守ってくれる大人に恵まれた私は、初心者だったのに県のトーナメントに行けるほどに上達。このときの経験も宝物です。
大学時代:大学を辞めようと悩んだ時期も
大学受験のときはめちゃくちゃに勉強したわけではないのですが、高校ではなんとなく常に10番以内をキープし、そのまま龍谷大学の経営学部に進学しました。
ただ、大学は真面目に勉強して人生をステップアップさせる場所だと思っていたのですが、授業は退屈なモノが多く、同級生もギャルやギャル男ばっかり(笑)。
高校の延長のようなもので、徐々に大学生活に興味をなくして、バイト三昧に。
たくさん掛け持ちして、学生ながら月に20万円くらい稼いでいました。
女手一人で育ててくれた母がせっかく進学させてくれているけれど、学びもないし、申し訳ない…。
「大学辞めようかな……」
そんな風に思いながら3回生に。
このとき、学ぶことへの最後の望みをかけて、経営学部で一番人気のゼミに。すると、そこで学びにモチベーションの高いメンバーと出会い、退学を思い直せました。
ゼミでは企業とタイアップして商品を企画したり、新卒採用の手伝いをしたり。経営学部らしい経営にまつわる勉強ができて、ようやく実りと呼べる時間を過ごせました。
就活に疑問を持ったリーマンショックと自分の育ち
そして、就活の時期がやってきます。
ゼミのモチベーションの高いメンバーの影響もあり、3年の夏には当時流行り出したインターンへ。
しかし、当時はリーマンショックが起きて、就職氷河期に突入するタイミングでした。
限られた選択肢しかない中で、就職するということにも疑問を持ちながら就活していました。
というのも、ゼミで企業の就活を手伝う中で、即戦力にもならない採用に1人あたり100万円もかける新卒採用を疑問に思うようになっていました。
また、当時からすでに企業の寿命の短さからもわかるように、学歴も良くない自分が、自分だけの力で息の長い企業を見つけられるわけもないと思い、悩んでいました。
こうして悩みに悩んでいく中で、自分の家族のことを思い出していました。
女手一つで育ててくれた母。そして、これからは自分が自分の家族を作っていく。
リーマンショックで有名な会社もつぶれてしまう時代。
「テキトーな会社に入って自分の人生を会社に賭けるより、自分一人の力で稼げるようになることこそが、安定なんじゃないか?」
このような考えが、自分の頭の中を支配するようになっていきました。
FP事務所で恩師と出会う
上記のような状態でぐるぐると悩んでいる時、
ゼミのなかでとても真面目でネットに詳しそうで大人しい友人が、一言
「オレ、就職せーへんわ。自営業一本でいく」
と、笑いながら言いだしました。
「こいつ、あほやな~」
と最初は思ったんですが、詳しく聞いてみると今「FPの事務所に通っている」と。
周りが就活一辺倒だったこともあり、興味を持って、彼についていったんです。
特に知識もなかったので、「フィナンシャルプランナーの事務所って華やかなんやろなあ」とイメージしてついて行ったのですが、到着したのはぼろぼろの喫茶店みたいな事務所。
そのときは、「こいつ、騙されてるわ」と思いました(笑)。
そして現れたのが、エヴァンゲリオンの碇ゲンドウみたいな人。
「この人、絶対やくざや…」
と思ったのをよく覚えています。
ですが、その碇ゲンドウみたいなFPは
「なんか悩んでるからここに来たんやろう?」
と、優しく私の悩みを聞いてくれました。そのなかで自分の就活の話も。
そのとき、
「まわりがどう動く、世の中がどうなる。その前に、自分がどうなりたいのかをよく考えろ!」
と繰り返し言われました。
「そんなこと考えたことなかったな」と、
新たな自分自身に気づかせてくれたその怪しいFPに、自分も興味を持つように。
そして、ゼミの友人と一緒にその事務所に足を運ぶようになったんです。
そして、彼と繰り返し話していく中で、
「安定とは、自分の力で稼ぐこと」
先述のこの考えこそが、自分のなりたい自分だと気づけたんです。
そして、このとき人生が決定づけられる体験が起こります。
彼がFPだったので、私の家庭の状況をつらつらと話していると、
「ちょっとライフプランニングしたろか」
と、世間話ついでに実家の家計の話に。すると、何かを感じ取ったのか、彼の弟子で、滋賀に住んでいるFPを紹介してくれました。
そして、京都から実家に帰った時にその人を連れていったら、驚くほど実家の家計状況が良くなったんです。
騙されて高額の保険に入っていた母・・・
実家で母の話を弟子のFPさんと一緒に聞いていると、さらにとんでもない事実が発覚していきます。
自分が10歳のときに父親が亡くなったとき、わりと大きな額の死亡保険が下りていました。
でも、父が亡くなった直後で、母も前向きな買い物にはすぐには使えない。
そのとき、もともと入っていた生命保険の会社から、
「そのお金で再度保険に入りましょう」
と提案されます。
父親が亡くなって意気消沈している母は、言われるがままに保険へ加入。
年間100万への貯蓄型だと思っていたらしいのですが、それが実は月額200万円の保険でした。それに気が付いたのは加入してから4か月後。
返金要請をしても、「満期まで返せません」と突っぱねられます。
そのとき、一番上の兄が法律系の仕事に従事していたので、裁判の準備へ。すると、件の保険会社も支社長が変わったタイミングで「これはおかしい」と、保険の解除をしてくれました。
そこでようやく全額返金されたのですが、この話をFPさんと聞いていると、「なんて危険な話しなんだ…」と感じると同時に、自分の父が死んだ死亡保険金をかすめ取ろうとした、悪徳な保険営業マンに憤りを覚えました。
そして、
「おカネの知識がないことで、自分にリスクがあるのは嫌だな」
と、強く思うように。
また、その滋賀のFPが家計の見直しをしてくれたおかげで、実家の家計状況が驚くほど改善でき、母も52歳で早期退職し、現職では叶えられなかった夢を叶えました。
他者にメリットを与えて、その見返りとしてお金が稼げるなら、こんないい仕事はない
そう思って、他人と自分の双方にメリットを出せるFPの働き方で生きていこうと決意しました。
社会人の修業時代。FP?!マッサージ店の経営まで
そうして自分も、弟子入りするような形で京都の事務所に入りました。
その事務所ではFP的な仕事だけではなく、各FPの事業主のお客さんも利用でき、商店街のようなイメージで使用する人も多かったんです。
また、「自分の力で稼ぎたい」と考えて集まってくる人も増えて、金融商品やさまざま商材などをグループで発売するようにもなり、私はその管理業務に携わっていました。
変な話ですが、なぜかマッサージ店も開業しようということになり、自分はそこの経営も務めることに(笑)。
朝から深夜まで毎日働きづめで、寝る間もないほどに大変でしたが、FP以外の仕事にも携われたことは、自分の大きな経験になりました。
外資系生命保険会社へ転職
そして、修行の日々も数年を経て、徐々に力もつけ、私生活も結婚、そして妻の妊娠。
公私共に順風満帆だったその矢先、恩師に信頼を揺るがす不誠実な嘘が発覚。
加えてこの時期グループとしても、個を大事にするより組織を守るような考えが広まりFP業務に携われない日々が続いていました。
疑問を持ってから約1か月で
「経験も積んだし、次のステップに進もう」と早々に決断。
元々志していた、
「人にメリットを与えるFPの仕事」
に振り切るために、今まで扱っていた金融商品や保険のパイプを残したまま、今まで扱っていない商品があり、出社義務のない外資系生命保険会社に転職しました。
しかし、師匠の事務所に学生の頃から携わっていた私にとって、外資系生命保険会社に属すことは初めての就職経験。
たくさんの社員がいる企業に所属することも初めてでしたので、「結果を残せるだろうか・・・」と、大変緊張して出社していました。
ただ、フタをあけてみてば初年度は2000人中50位ほどの成績を納められ、年収も大台に乗るように。
過去の経験を生かして、ライフプランニングをしっかりして、不動産会社や旅行会社とタッグを組み、彼らにはお客さんを紹介し、保険を探している人には自分の保険を紹介する。メリットを徹底的に出すという営業方法を貫きました。
最適な商品を提案したい:総合代理店へ
結果的に4年で移籍することを決めたわけは、
クライアントが経営者や大学教授などアッパーマーケットになるにつれて、相手に合わせて商品を提案するのでなく、商品に合わせてトークを作っている自分になっていくことに気づいたため。
自分は元々、
「人のためになるならなんでもいい!」
と思ってFPという仕事を志したので、
金額が高額になるとあきらかに他社と比べて劣る保険を売るという選択肢しかもたず、また今後もWEBやITを一切利用出来ない規制の厳しい保険会社に所属し続けることに疑問を抱き始めていました。
それならば、、、
保険全商品を網羅し、更に投資信託、不動産投資まで扱えるようにし、トータルでお客さんの家計や人生までプランニングできる形で働くのが一番いいのではないか。
その時子が1歳の乳飲み子で、新築一軒家の審査がおり、ローンをスタートしたタイミングで、
築いたクライアントと継続報酬を一切手放し、報酬0円からの再スタートを決意。
人に合った最適な商品を紹介でき、自由にマーケティングが出来る総合代理店に籍を置きました。
今は出逢いに恵まれ、新たな恩師との出会いもあり、今期は金融業界のトップ5%に与えられる称号でもあるMDRTに該当。
さらに活動の幅を広げ顧客満足の追求をしています。
ダメなことはダメと言う:等身大で話すこと
長々とこれまでの私の人生を語ってきましたが、そんな私が今、仕事において最も大切にしていることは、
お客さんの前で自分を飾らず
等身大で話すこと
すなわち、ダメなことはダメだとはっきりと言うということ。
報酬欲しさに自分の売りたい商品の話をすることが一番だめで、まずは綿密にお客様の話を聞いて、自分が培ってきた金融知識をフル動員して綿密なライフプランを立てる。
そして、お客様がなりたい自分になれるためのお手伝いをする。こういった気持ちで働いています。
相手に正直にモノを言うためには、
■ 商品 ■ 職業
■ 会社 ■ 自分
の4つに確固たる自信がなくてはできないのです。
もし私が低い自己肯定感で働いていて、自分の提案に自信を持てなかったら、私を頼ってきてくれたお客様も不安になってしまうでしょう。
そのために、自己肯定感を高く保てるよう、日々自分のメンタルから鍛えています。
正直な気持ちで
お客様のライフプランを立てる
相手の人生に触れた会話をする
この2つを行動指針として、日々、働いております。
動画にてご挨拶させて頂きます
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