加藤誠

加藤誠のプロフィール

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 名前 加藤 誠(カトウ マコト)

 会社名 株式会社Mapフィナンシャル

 役職 執行役員

 生年月日 1974年2月3日生まれ

 出身地 長野県

 経歴
株式会社プライフルテナシー取締役
⇒株式会社WealthManagement代表取締役

加藤誠の詳細プロフィール

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父親の型破りな遺伝子、長野でノビノビと育つ

今はフィリピンで3回目の結婚をして、悠々自適に過ごしている父を親を持つ私は、若いころから確かにその遺伝子を受け継ぎ、自分も自由気ままな気質を持った子供であったように思います。

三兄弟の長男として生まれた私は、小学校時代は典型的なガキ大将。毎日外で遊んでは、ガキ大将さながら、生意気で腕白な子供でした。

 

中学の頃からサッカーを始め、負けず嫌いの性格ゆえに、勉強も部活も1番になるために心血を注いでいました。当時はなんでも一番がかっこいいと思っていたんでしょうね。

中学3年で部活を引退した後は、サッカーで一番になりたいという気持ちから、「ブラジル行きたい」と先生に相談したほど。

 

そのときはそのときで本気でそう思っていたのですが、先生からは「高校に行け」と、当たり前のアドバイス。

 

今思えば、なんで普通じゃない選択肢も教えてくれなかったのか、もしそのとき違う道を教えてくれていたら……なんて思い出もあります。

高校は進学校に 音楽に目覚める

そして、高校は出身地の進学校に進学。そこで、今度は音楽に目覚め、ギターを始めます。

するともうサッカーも勉強もどうでもよくなり、部室に自分の部屋を作り、音楽三昧の日々。

 

しかし、中学と違って高校の教師は理解があり、私の母を呼び出して

「留年して問題を起こされるよりいいから、卒業させてあげるからじっとしててくれ」

と言い、特に私の生活態度をとがめることもありませんでした。

 

不良が多い時代でもありましたし、私はガキ大将的な気質があったので、

「他校と揉め事を起こさないための必要悪。君はいい不良だから(笑)」

校長先生に言われたことがあります(笑)。

 

楽しく自分の好きなことをして高校を卒業し、その後は地元を出て東京で就職しました。

一応進学校だったので、その高校で就職したのは私と公務員になった同級生の2人だけ。今思えば、とても自由にさせてもらっていたんだなと思います。

 

そんな私の学生時代の背景には、やはりなんとなく父親の影があるのかも。

 

中学のころ、先述の型破りな父親は、父の妻である私の母に、「俺の彼女が店を出すから、保証人になってくれないか?」とお願いし、(もちろん母は固辞)

その後、勤めていた地元の一流企業を退職して、その退職金で彼女と沖縄で2年間遊んで暮らしていました。

 

こういうオトナを間近で見ていたから、自分も「フツーに生きる必要なんてないな」と思えていたのかもしれません(笑)

バンドでの成功を夢見て上京。3か月で沖縄へ

高校を卒業してすぐに上京し、最初にライブハウスの面接を受けました。

それが、今では某セレブ有名人の夫でパチンコチェーンを経営している人のライブハウスでした。だから、ライブハウスで働きたいと思っていたのに配属先はパチンコ店。

 

「自分がやりたいのはこれじゃない」と思っていた矢先、友人が沖縄のとあるバーのパンフレットを盛ってきて、それがイカしてたんです。

すぐに電話して、2か月でパチンコ屋を辞めて、沖縄に飛んでバーで働き始めました。

 

当時、1992年の沖縄は今よりもっとアメリカみたいな場所で、街も人もすごくかっこよかった。

 

バーの給料が月10万円で、家賃が3万6000円。

それでも、お客さんが家具とか必要なものをプレゼントしてくれていて、生活には困りませんでした。

 

一度、「かっこいいから瓶のコカ・コーラ自動販売機を冷蔵庫代わりに使えよ」とプレゼントされて使っていたら、

1Kの小部屋なのに電気代が3万円かかって大変な思いをしたことも(笑)。

 

でも、沖縄でサーフィンを覚えて、自分がやりたかったギターを弾いて。充実した毎日を送りました。

沖縄から次はアメリカへ。濃厚すぎる2年間

そして沖縄の影響で、「もっと本場のアメリカを体験したい!」と思って、翌年にお金を貯めてアメリカへ

 

ビザは取れないので、3か月だけと期間が決まっていましたが、最初はカリフォルニアへ降り立ちました。そこで車を借りて、ネバダやアリゾナを流すように旅行。

 

ただ、アメリカってガソリンスタンドの間隔が700キロぐらいあるんです。何も考えずに次のガソリンスタンドを目指してドライブしてたら、アメリカを横断して東海岸のフロリダに到着しちゃったんです。

「あれ、アメリカ横断しちゃったよ」と、自分でもそのときはびっくりしましたね(笑)。

 

道中でも大変な経験をしたことは結構ありました。毎日ドライブ日記をつけていたので記憶は鮮明にあります。

 

一番衝撃だったのはテキサスでの出来事

 

夜中に、アメリカでできた友人と車のなかでトランプで遊んでいたんです。すると、いきなり車の周りをぐるっとスポットライトの明かりでまぶしく照らされて。

「なんだ……?」

と思って目を細めて見てみたら、警察官が30人くらい車の周りを取り囲んでいました。おまけにヘリコプターも3台空を飛んでるし。

 

そして、ゆっくりと警官が近づいてきて、

「おまえら、この辺りのアジア系のギャングだな?

と一言。

 

見慣れないカリフォルニアナンバーの車の中で、アジア人がポーカーで仲間と遊んでいたら、確かに治安が悪そうに見えたんでしょう。

でも、一歩対応を間違えれば撃ち殺されていた。本当に死ぬかと思った、怖い経験でした

 

ほかにも、基本的に野宿をしていたので、川で水浴びをしていたら目の前にワニが現れたりとか。

 

根本的に、アメリカって栄えているのに死が身近ににある環境というか、当時まだ19歳か20歳くらいの年でしたから、価値観が大きく覆ったんです。

「いつ死ぬか分からない世界で生きているんだな」

そう思わせてくれた経験は、それまで小さくて安全な世界で生きていた私の心の檻を壊してくれたような気がします。

働いてもないのに、自分の力でなんとなく稼いでいた20代前半

アメリカから帰国して、本格的にバンド活動をしようと、メンバー探しを始めました。

それでも、家賃やちょっとした生活費のためのお金も必要です。ただ、自分の中で仕事をするというよりは、お金があればいいと思っていたので、バイトはあまり探していなかったんです。

 

「なにか稼ぐ方法はないかな~」

と思っていた1990年代前半当時は、Airマックスが大流行していた時代。

 

「そういえば俺、アメリカで大量に仕入れられる場所を知っているな」

そう思った私は、セレクトショップにプレゼンをして、買い付けのために再びアメリカへ。

アメリカで調達した靴や服を、仕入れ値の10倍で卸すという、気づけばバイヤーみたいな仕事を1年くらいやっていました。

 

そうやって稼いだお金を生活費や音楽に使って、普段はバンド活動がメインの生活を送る。そんな生活を27歳くらいまで続けていました。

 

しかし、最後は組んでいたバンドが自然消滅的に解散

そのとき、無職の自分と2年ほど付き合っていた現在の妻でもある彼女と結婚することにもなっていたので、

「そろそろ、仕事しないとな」

と思い、ようやく社会人としての一歩を踏み出すことになるのです。

遅すぎる社会人の第一歩は失敗の連続。転機は10年後

最初は色々な会社に応募して、50社ほど面接もしましたが、全部落とされました。

 

どこでも言われたセリフが、

「30歳近いのに社会経験がないのは厳しいですね」

仕方がないから、友達の紹介で色々な仕事を手伝って、なんとか生活していました。

 

そうやって生活をしていくなかで、自分で商売でもしようかと考えていたとき、お世話になっていたバーのママから、

「あんたに紹介したい人間がいる」

と言われ、昼間の歌舞伎町のバーで紹介されたのが、現在のマップフィナンシャルの社長で、当時はAIGスター生命保険の社員である太田社長でした。

「ウチでサラリーマンとして働いてみないか?」

こう誘われたとき、自分はすでに30代前半

 

結局、バンドを辞めてからも会社勤めをしたことはなかったので、初めて自分に巡ってきたチャレンジだと思いました。

 

起業して稼ぐのはいつでもできる。ただ、大企業のサラリーマンになるチャンスは今しかないかもしれない

 

そう思った私は、挑戦してやろうという意気込みで、AIGスター生命保険に入社したのです。

30代前半、職歴なしの保険営業マン 初めてのサラリーマン生活スタート


チャレンジだと思って入った会社で、サラリーマンとして初めての仕事である保険営業は、当然ですが、簡単な仕事ではありませんでした。

 

当時のAIGスター生命は、それほど面倒見のいい会社ではなかったので、最初の1か月こそ勉強すれど、2か月目からは「知人を回ってこい」と放り出されるんです。

そのとき、自分の周りにはバンド仲間だった連れとか、1か月に2~3万円を払える人間がいなかった(笑)。

 

だから、昔遊んでいた女性に連絡を取って、保険を探している子を当たっていったんです。

それでも、次につながりにくいし、生活はジリ貧に。そして、入社してから約一年後、リーマンショックが訪れました

リーマンショックのせいでAIGスター生命は買収されることになり、自分をスカウトしてくれた現社長は傘下の部下を連れて独立。

 

私はまだ入社して間もなかったので、「なんとか踏ん張ってやろう」と、もがき続ける日々でした。それでも不景気もあって、辛い時代が3年は続きました

 

最も貧乏をしていたときは、給料もほとんどないのに、営業を学ぶために多くの人とよくご飯にも行っていたので、借金が800万円ぐらいあった頃。

そのときは、とにかく仕事で使うためのお金もなかったんです。

 

たとえば、お客さんにアポを取っても、喫茶店で支払うコーヒー代がない。一度だけ、「財布を忘れっちゃって…」と言って、お客さんにコーヒー代を立て替えてもらったこともありました。

でも、そうして受けた恩は生涯忘れませんね今でもその方とのお付き合いは続いております。

 

そして、そのときの私の営業スタンスは、もう保険を売るだけではなく相手の仕事をただひたすらに手伝うことに執心していました。

その見返りとして、たまに保険に入ってもらう。その一環として、不動産業界と提携して、住宅ローンの相談に乗ることも。

 

固定観念にとらわれることをやめて、

「とりあえず契約は取るしかない。何か形さえ作ればどうにでもなるだろう」

と、人間関係を作ることを重視したんです。そして、ようやく活路を見出していきました。

FPをやりながらまさかの飲食店経営へ。しかし、これが最大の成長に

そうして試行錯誤しながら、なんとか保険セールスマンとしても一生懸命働いていましたが、不景気もあって安定はすることなく、サラリーマンとしての給与も低飛行。

「なんとかしないとな……」

と思っていたとき、自分をAIGスター生命に誘った太田社長から、再び声をかけられます。

「ウチ、飲食事業やるから、一緒にやろうぜ

 

面白いなとも思ったし、そのときには既に不動産の紹介やら証券の紹介やらなんでもやっていたので、「これも挑戦だな」と思い、当時新橋にあったFP事務所に移籍。

FPとしての活動もしつつ、飲食店事業を引き受けました。

 

これが2013年です。

 

そして飲食店の経営に携わることが、自分の転機にもなりました。

飲食店の経営って、ひたすら数字と向き合わなくてはいけないんです。利益率、集客率、リピート率。

空間がキレイ、味がうまい、接客が良いっていうのはもうあたりまえで、どこで差別化するかが最重要事項

 

FPとしての活動はしつつの運営でしたので、このときは人生で一番働きましたし、一番考え抜きました。毎日店にも泊まって仕事漬け。すでに子供も3人にいましたが、家に帰る暇もありません。

それで、そのまま死に物狂いで働いて、2年でなんとか年商1億円を達成したんです。

 

「なんだ、やればできるじゃん」

とも思えましたし、数字と向き合い続けたこの経験は、自分のFPとしての足腰も強くしてくれました。

 

そうして5年間飲食店経営に携わり、再び現在所属するマップフィナンシャルへ移籍。専業FPとしての活動を再開します。

強くなったFPとしての足腰。経営目線の考え方で伝えられる


こうしてまた総合代理店に戻ってきたのですが、このときの自分は、十数年前に新人保険セールスマンとして業界に飛び込んだときの自分とは目線が変わっていました。

 

飲食店経営で、現場での数字の出し方が理解できるようになっていたので、経営者の悩みが、綺麗な解像度で分かるようになっていたのです。あの辛かった現場が、後に経営者と対等に話ができるきっかけになったんですね。

 

そして、その経験が、自分の言葉にも自信と説得力をもたらしてくれました

自分の経験したことしか言葉にできないっていうのは、その通りで。今は自信を持って、経営のトップに経つ方にお金のアドバイスができるんです。

 

現在の自分の得意分野は、企業や経営の財務強化に関する保険の提案や、不動産などのアドバイス。

 

AIG生命時代から計算すれば、当時最ももらっていたときに比べ、年収も10倍になりました。

コロナ時代まで見据えた今後のビジョン

2020年は、コロナの影響であらゆる業態の働き方、そして人々の生き方が変化した年でした。

私自身、2019年の年収が4500万円ほどあって、お客さんに利益を出しながら、自分も稼ぐというWinWinのやり方で、「年収1億円を稼ぐ」という、マッチョな目標を立てて仕事に邁進していました。

 

しかし、コロナで社会が大きく変わっていく今、「もしかしたら、いかに自由であるのかが重要なのかもしれない」と思い、目標も変えました

 

そんな今の個人としての目標は、

「場所、お金、時間の自由を確保すること」

です。

 

特定の業種、特定の場所など、なにかに依存するリスクが、今後はより高まっていくと予想しています。自分自身、そうした自由を手に入れるために動いていく必要があると感じています。

 

そして、それは私を頼りにしてくれるお客様にも言えること。

 

移り行く時代の中で、成功する人、躓く人が出てくると思いますが、躓いた人にも、どこかで成功できるポジションは必ずあるんです。そして、そういう場所を作りたいなと思っています。

お客様との付き合いで自分に課したテーマ

「すべて自分が責任を持つ」

 

これまで長々と自分の経験を話していましたが、そんな私がお客様に対して心がけているテーマは、

「全部自分が責任を持つ気持ちでやること」

です。

 

お客さんの資産運用に対して、「もし損失が出たら、全部自分が弁償する」こう考えて望めば、自ずと真剣になるんです。

 

契約だけ取ればいいわけじゃない。それは、経営を経験した自分だからこその言葉でもあります。

私はこの気持ちを常に抱いて、お客様の資産運用の相談に乗っています。

 

それと同時に、自分のお客様には、私が「すべて責任を持つ」と思えるような人しかいないんです。

言ってしまえば、私もお客さんを選んでいます。

 

私のお客様には経営者や自営の方がほとんどですが、真剣に自分の仕事に向き合っている方フラットな目線で語れる方を選んでいます。

「この人の資産は必ず守る」

こう思えた時、私も自分の人生をかけた仕事ができますから。こういう気持ちで、日々働いてます。

動画にてご挨拶させて頂きます

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