田原健太郎のプロフィール
簡易プロフィール
■ 会社名 株式会社Mapフィナンシャル
■ 役職 執行役員
■ 生年月日 1977年8月9日生まれ
■ 出身地 福岡県 太宰府市
■ 出身校 天理高校・日本大学
田原健太郎の詳細プロフィール
70年代の福岡、料理人の父の元で育つ
料理人の父と会社員の母の元に四人兄妹の2番目、長男として生まれました。
この時代の福岡県で親が料理人。兄妹も4人いるとなれば、家は毎日ガッシャガシャでした(笑)。
毎日、兄妹と夜遅くまで騒がしく過ごしていました。しかし、弟と外に遊びに行ったまま、日が暮れても帰らないことが多かったので、「これは危ない」と心配になった母。
何か始めさせて目に届くところにおこうと、私を習い事に通わせようとし、そのとき私が選んだのがラグビーでした。私も不思議なボールの形状に惹かれたのがきっかけですね。
小2で始めたラグビーで学んだ「One For All. All For One.」の意味
現在も週1回、クラブチームでプレーをするほど人生の相棒となったラグビーですが、最初から好きでやっていたわけではありません。
いざ入部してみると生徒が40人以上いて、3軍に分けられており、当然、最初は3軍から。
走り込みなどの練習が物凄くきつく、ぶつかるのが痛いし、すぐに辞めたくなりました。
しかし母が、
「男が一度『やりたい』って言ったのに、何ばいいよっとね!」
と、ラグビーを辞めるのを許してくれず。
しばらくイヤイヤ続けていましたが、仲間と練習していくうちに、1軍目指して頑張ろうと思うようになって。だんだんとラグビーの面白さがわかるようになったのです。
ラグビーってタックルされると痛いし、体のでかい敵がこちらに猛進してくると恐怖を感じるんですよ。
コーチには、
「その恐怖から自分が逃げたら、自分の仲間が対峙しなくてはならないんだぞ。恐怖に打ち勝って仲間のために体を張れ」
「試合に入ったら、仲間を助けろ。逃げずに成長しないと、また同じ壁に当たる。」
とよく言われました。
これこそラグビーの「One For All. All For One.」の精神で、のちの自分の人間形成に大きく影響する、大切な精神鍛錬となりました。
成功体験となった九州大会での準優勝
中学2年生の頃にレギュラーとして出場した九州大会で準優勝。これはすごい成功体験となり、嬉しかったですね。
その後、当時のスクールの監督が私に目をかけてくれて、奈良の野球で有名な天理高校のセレクション(試験)にわざわざ私を連れて行ってくれたんです。
天理高校は中一の頃に、ラグビーで全国優勝をしたときの試合を見ていたので、強い憧れがありましたし、まさか自分が遠く離れた天理高校に入学できるチャンスがあるとは思ってもいず、監督からその話があった時には是非入学したいと強く希望しました。
当時、福岡から天理高校にセレクションで入学する流れは今のようになく、貴重なチャンスだったと思います。
セレクションでは絶対に合格した手応えがあったのに、母から「あんた、不合格やったよ」と言われました。
納得できずに、滑り止めの高校を受かった後に再度連絡してみたら、母親が受験番号を勘違いしていて、本当は合格していました(笑)。
あやうく人生の分岐が変わるところでしたが、憧れだった天理高校に無事進学することができたのです。
死ぬほど辛かった天理高校ラグビー部。40過ぎてもあれより辛いことはない
高校時代の記憶はラグビーしかありません。
90年代当時の天理高校ラグビー部では、監督が神様。先輩は絶対の存在で、1年生は兵隊です。
1年生は先輩の前では同級生と楽しそうに話すことは禁止で、常に憂鬱な顔をしていなければならないという謎ルールもありました。
返事も「はい」「いいえ」「はあ」の、3つだけ(笑)。
朝は起床5分後に全員集合。そこからめちゃくちゃ走って、練習。学校の授業は2時頃終わって、そこから練習。
寮に帰れば掃除、洗濯、食事の準備。口笛で先輩に呼ばれ、すぐ走っていなかければ殴られる。
先輩の夜食作りに先輩のマッサージ、先輩のジャージをタワシでこすって洗濯・・・寝る時にはボロボロで、砂だらけの布団の中で泥のように眠りました。
夜逃げした同期もいたほどで、最初の1年は本当に辛かった。
1年生になって初めてお盆休みで実家に帰ったら、母親から、
「あんた、白髪が生えとるよ」と。
白髪の存在に自分も周りも気付かないほどの体力的な辛さとストレスがありましたね。
あのときもっとやれた、やるべきだったという想い
それでも、やはり先輩の強さを実感した瞬間も味わう機会もありました。
入学してわずか2か月目のゴールデンウィークの合宿中。ある試合でレギュラーだった3年生がケガをして、2年生を飛ばして私がレギュラーに抜擢されたのです。
ポジションは相手とぶつかることの多いフルバック。合宿中は1日に3試合あり、ラグビーは1試合こなすだけでも相当ハードなのに、それを残りの3日間出場しなくてはならない。
喜びよりも、大変な重圧を感じて試合に臨んでしまっていました。
そして、初日の2試合目。
相手のタックルが、自分の腿に突き刺さります。「モモカン」と言ってよくあることなんですが、それが激痛。
それでも、ひきずりながら走ることができるレベルではあったんです。
でも、自分は入学したばかりの新入生。上級生と出る試合に精神的にも参っていたので、そのモモカンを理由に逃げて、けが人リストに入り、その後の試合を回避してしまったんです。
そしてその後、自分の1つ上の上級生が出るのですが、今度は先輩にも激しいタックルが入ります。1日3試合もすればどこかで体力も落ちますし、体が痛むタックルも受けます。
それでもその上級生は、痛みが出る箇所にテーピングを巻きに巻いて、グラウンドを走りまくっていたのです。
そのときは、「これで試合から逃げられた」と思ったのですが、後で、「いや、俺はあのときもっとやれた、やるべきだった」という思いが、今でも残っていますね。
そして、天理のラグビーイズムが、自分にも浸透するきっかけとなった出来事でもありました。
2年生時に初レギュラー。全国大会へ出場するも翌年はドラマが。
きつい1年生時代を乗り越えて、なんとか2年生に。
2年生になれば、練習はきついけど、寮でも楽しく同級生と話すことができるので、もう天と地ほど違います(笑)。
そして、その春にレギュラーに選ばれました。しかし、恐らく上級生になったタイミングでレギュラーにも選ばれたことで、調子に乗ってしまっていたのでしょう。
夏の予選でそのレギュラーははく奪。同時に選ばれていた同期3人ともレギュラーから外されてしまいました。
このときは、ただただ悔しかった。一日中ラグビーしかやっていないので、自分からラグビーを取ったら何も残りませんからね。
外された同期と結束して、とことん練習し続けました。
そして、その年の全国大会予選の準決勝で、再びレギュラーに抜擢されます。準決勝、決勝とそのままレギュラーで出場し、見事チームは全国大会にも出場。
分かりやすく、努力が報われた経験でした。嬉しかったですね。
しかし、いいことばかりの高校ラグビー生活でもありません。
ラストイヤーで主力として迎えた3年生時のシーズン。全国大会予選の決勝までコマを進めたのですが、昨年倒した高校に負けてしまい、なんと全国大会に出られないことになったのです。
これが、当時は天理高校としては大ニュース。
というのも、天理高校ラグビー部は10年連続で全国大会に出場していた強豪チームだったのです。
その尊い歴史を止めてしまった私、また同期の仲間は、悔しさと不甲斐なさで放心状態に陥りました。
「やってはいけないことをやってしまった・・・!」
スポーツは結果が出るものなので、仕方がないと言えば仕方がないのですが、とても苦い経験でした。
それでも全力でぶつかった結果だったので、得たものも大きかったのかもしれません。
大学もラグビーで歩む 日本大学に進学
大学ではスポーツ推薦で日本大学に進学。
日大での寮生活は、天理高校の1年生時に比べれば遥かにマシで、ほかの同級生が苦しむのを横目に、快適に過ごしていました(笑)。
ラグビー自体は、1年の夏に早速レギュラーに選ばれますが、幼少期、高校の頃の経験から手は抜かず、一所懸命に練習、プレーをしていました。
ただ、当時の監督がチームマネジメントの上手い人で、今後伸びそうな1年生も採用するのです。
それは、組織として成長していくためにも必ず必要な判断です。そして、私も2年時以降、必ず春にレギュラーから外されるようになります。
このレギュラーから外される間は、いろいろなことを試行錯誤し、葛藤を抱えながらプレーしていました。
悩ませることで、視野の広いプレーヤーに育てるという意図もあったと思います。
大学時代は、2年生のときにレギュラーとして出場し、全国大会ベスト4まで進出したことが最高成績です。
国立競技場でプレーできたことは今でもいい思い出ですが、それ以降の年はベスト4まで進むことができませんでした。精一杯やっていたつもりではありますが、終わった後は、
「もっとできたんじゃないか」
と思ってしまうのは、スポーツマンあるあるなのかもしれません。
就職先もラグビーで歩む 社会人2年目、24歳でラグビー人生にピリオド
大学卒業後の就職先もラグビーで決まり、セコムの社会人ラグビーに所属する形で入社しました。
大学の監督からは、
「社会人では1年目が勝負だぞ。1年目で結果を出さなければ、2年目以降はどれほど頑張っても使ってもらえなくなる。最初の年に本気を出せよ」
こうアドバイスされていたのですが、働きながらの練習は体力的にも精神的にもキツかった。
毎朝5時半に起きて、寮から会社まで片道1時間半以上かけて通勤し、終業後に夜9時まで練習。そこから食事などを済ませば、あっという間に11時。
体力がまったく回復しないまま低調で生活を送るうちに、だんだんと自分のラグビーに対する熱量が少なくなっていくのを感じました。
ようやく慣れてきた2年目、
「今年、レギュラーになれなかったら部活を辞めよう」
そう決意し、練習に励んだのですが、先輩の助言通り、もう私にはチャンスは回っては来ませんでした。
そして2年で社会人ラグビーを引退。
ここから、もうスポーツマンではない、一般的な社会人としての私の第二の人生がようやく始まりました。
自分を追い込むために、生命保険の営業マンに転職 しかし、現実は甘くなかった
社会人ラグビーを引退した後は、セコムの子会社の浄水器販売事業部へ移動に。
しかし、当時の世間にはまだ「お金を払って水を買う」という認識がなかったので、高額な浄水器を販売するのに一苦労しました。
徐々に営業職に馴れ、仕事も順調でしたが、ノルマのとおりに販売をこなすだけの仕事に未来の自分を重ね思い描いた時、物足りなさを感じずにはいられませんでした。
そして、
「このままではいけない。自分を変えよう」
と一念発起。
知り合いの紹介で、自分の歩合で稼ぐ生命保険の営業マンに転身しました。
しかし、最初はまったくうまくいきません。ずっとスポーツばかりしていたので、論理的に良さを伝えるというよりは、人柄を押し出して営業していくタイプだった当時の私。
もちろん、それだけで保険に加入してもらえるほど甘くありません。
給与は最初だけ固定でもらえ、その後は契約数に応じた金額がもらえる歩合制。
契約を頂く件数は計画通りに伸びていきませんでした。
自分ごとから相手のことへ 本当の意味のスタート
そんな苦労が続いていたある日、現在私が在籍しているMapフィナンシャルの社長に出会い、スカウトされます。
前職の生命保険会社では自社の生命保険しか扱えませんが、代理店ならすべての商品が扱える。ここでなら、本当にいいもので提案できるかもしれない。
そう考え、「チャレンジさせてください」と、この会社に飛び込みました。
自分ごとから、相手のことへ。
保険は相手のことを考えないと商品の良さも伝わらない。
Mapフィナンシャルでは、松下幸之助氏が提唱した「たらいの法則」の考え方を体現する経験を積ませていただいています。
たらいの法則とは、
「たらいの中の水の動きのように、相手に与えようとすれば回り回って返ってくるし、自分だけが得をしようとすると逆に水は逃げていく」といった法則です。
自分が伝えたいことばかりを一方的にお客様に話すのではなく、お客様の話したいことを丁寧に聞き、相手の中で顕在化していない課題を解決することです。
現在はこの「たらいの法則」に加えて、「一期一会」の精神を持って働いています。
日本だけでも1億2000万人の人口がいて、私が他人と出会えるだけでも、「なにか意味があるんじゃないか」と考えるようになりました。
日本語には「縁」という言葉があり、すべての出会いは縁がつないだものだと思います。
この縁に報いるためには、仕事の話でなくてもいいんです。いろんな話をして、縁に報いる、せっかくお会いできたのだから、良質な時間を共有したい。
このような考え方で、私と出会う方すべてと接しています。
■ラグビーで染み付いた「One For All. All For One.」
■Mapの哲学である「たらいの精神」
■人との出会いを大切にする「一期一会」
この3つが、私の仕事に対する姿勢の基本です。
お困りごとがあったときは、どうぞなんなりとお尋ねください。
動画にてご挨拶させて頂きます
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